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さこさん手記

女の子が描かれてるペインティングとか観てて、画中の人物が着てる服装の系統なんですけど、ふりふりふわっとしたかわいい服か制服(セーラー服とかブレザーとか要は女子高生的な)との遭遇率が高いです。

かわいい女の子絵を描こうとすると、ロリータ服とか制服は少女っぽさの側面を多分に持ってるから、何も考えなくても描けるつーか、描く側も観る側も可愛さを共有するのに手っ取り早く、その先にあるものにいち早くたどり着ける…ってトコなのでしょうか。

単純に、フリルとかレースとかセーラーとか、そういったものを描く(観る)のが好きっていうだけな場合もあるだろうし、好きであればなおさらそれらを採用するだろうから、それだけのことかもしれん…。
さこさんがセーラー服をよく描くのは楽だし好きだからで、意味性は特に無いもんねぇ…。

んでまー、先日もとある方の個展を観に行ったら、やっぱし制服とか描かれてらして、ある種もうこれは様式美なんじゃないかとすら思いました。避けて通れないというか。とはいえ、この方は女子高生を重点的にモチーフにしているように見受けられましたので、制服であることに意味があるのだと思いますが…。

つうか逆に、制服を描きたい(あるいは好まれる)がゆえ、それがモチーフになるような意味を画題に持たせる、みたいな現象だってあるのではないかしらん。ねー。

でで、いつまでたってもそゆー記号的側面にべったりしてても(好きだケド)つまんねので、なんか服装だけちょっと変えたいナーなんつって、最近はかわいい女の子(3次)のファッションスナップとか眺めてます。服装の系統が画題に影響しない程度に…てゆかね、服装を「勉強」しちゃうとさあー、そっちのカルチャーに引っ張られて描くべきものが変わっちゃったり、「勉強しました」感がビシビシ出ちゃってかっこわるくなってしまぅよね。おそろしいよ~。

だもんで、普段描いてるノリで服だけちょっと系統増えました、みたくできるといいんだけど…。最初はファッションに引っ張られるんだろぅなあ~。こわこわ。いんすたぐらむに上げてる絵とかすでに…w
細部の装飾にこだわると「勉強した!」ってバレるから、その辺のさじ加減に気をつけますん。
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変身する少女

アイカツ!にすっかりはまってます。
当初はアニメを流し見する程度だったんですけど、1期の終盤頃からもうちょっとマジメに観るようになり、気づけば夜な夜なゲーセンでアイカツをやるまでになりました。

それにしてもアニメのアイカツはストーリーもキャラクターも明るく楽しく前向きで、見ているこちらも気持ちが良いです。昨今、作中で変身描写のある少女モノは何かと戦闘を強いられていて、女の子も肉弾戦を行うほどにたくましくなったのだなと思う一方、キレイにかわいく変身した後でボロボロになるほど戦わないといけないなんてよくわかんねーなとも思います。それだったらガッチガチの重メカの中で、ケーキでも食べながら戦う世界の方が納得いきます。

その点で、キレイにかわいく変身(というかまぁ衣装に着替えただけなのですが)した後、ステージで歌ったり踊ったりするという過程は何の違和感もなく受け入れられます。戦いといえばライバルとのそれであり、殴りあうようなものでもなく、少年漫画に見られる「友情・努力・勝利」の少女漫画表現とも言えるのではないでしょうか。

セーラームーンからプリキュアまで、ひょんなことから変身して戦う立場になってしまう場合と、ナウシカのような自分の立場や状況から戦いに駆り出される場合と、最初から自分が兵器なので戦う艦これと、戦う美少女も様々です。美少女が戦う姿が見るに堪えないわけではなくむしろ好きな方ですが、子供向けを前提とした作品においてはより慎重に戦いの理由や意味を設定してほしいなと思います。

魔法のステッキは魔法を使う道具でしたが、いつしか武器としての機能も持ち始めました。そんなスタイルには夢がないなと陳腐ながらも感じるがゆえ、アイカツ!やべぇってハナシでした。

さこさん手記

あした、お誕生日なのよね。今くらいの時期は年を取りたくないから誕生日がうれしくないんだけど、もっと年取ると「生きててよかった」なんつーて祝いたくなるかもね。

この1年はいろいろいいことあったにゃあ。展示をする機会が2回もあったし、本つくったりさあ。絵に関するいろんな事ができた。
あしたからも、いろいろできるようになるといいな。

(んで、さっそく3月。グループ展に参加しますので、またよろしくおねがいします。)


まだしばらくは絵描いて日々を過ごしたい。
またマスコット作ったりしたいな…とか。
あと絵をもっといっぱい観に行きたい。

小説家の人はきっといっぱい本を読んでて
音楽家の人はきっといっぱい演奏を聴いてて
なら、おえかきの人はきっといっぱい絵を観てるんだよ。
きっとね。

I CAN NOT REDO.

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q
(EVANGELION:3.0 YOU CAN (NOT) REDO.)

はい。Qみたよ。

破のとき、このブログでかなり荒ぶっていた記憶があって、あらためて当時の自分の所感を読んでみたのですが、感情まかせの見苦しさもあるけど、本質的には今と変わらない意見だったので、なんとなくほっこりしました。
とゆうわけで、Qについても覚え書きしておこうと思いますので、ネタバレ等を気にされる方は映画をご覧になってからお読みくだされば幸いですー。

ちなみに破のときの記事はこちら。
I CAN NOT ADVANCE.



さて。
まずは簡単な個人的感想を述べますと、普通におもしろくなかった、ということにつきます。もっと言うと、エヴァに感じている「おもしろさ」がなかった、ってことです。

さこさんは正直、エヴァに関しての難解な世界観や設定については、全く詳しくありません。なんとなくでしか把握していないので、使徒ってなに?とか聞かれても、全うに説明ができないレベルです。
けれどそれら世界観が構築する、印象としての「ヤバさ」みたいなものは、設定の詳細を理解していなくとも旧作では十分に感じ取ることができました。これはヤバい、と。

今回のQにおいてさまざまな感想を目にしますが、その中で気になるのが「このわけのわからなさこそがエヴァ」という話です。これ、もちろん褒め言葉として使われています。「また難問をふっかけてきて、俺達を置き去りにしている」と。こういうわけです。確かに、考察部隊にとっては願ってもない燃料投下で、このあとも次回作が公開されるまではそれで楽しめるかなと思います。けれどさこさんにとっては、単に「謎の多い旧来のエヴァ」という文脈をなぞっただけの、中身の無いものとしてしか捉えられませんでした。

旧作の持つ「ヤバさ」は、多くの謎や設定について理解できるか否かを別に、なぜ感じ取ることができたのでしょう。それはエヴァがただの難解な作品だったからではなく、登場人物の心の機微を気持ちが悪いほどに描くという軸があったからです。
普通なら他人には見せたくない人の心の脆い部分や、さらけ出したら気持ち悪いと思われそうな他者へ対する依存心などを、すべての登場人物にのせて、もう見たくないっていうレベルまで描き出していた旧作は、庵野監督という作家の人格を見せつけられるようなものでもありました。エヴァという機体のコアに母親の魂が入っているのと同様に、この作品のコアには庵野監督の(当時の)人格が移植されていたと思っています。

今回のQが中身の無いものに見えてしまったのは、その点が皆無だったからです。あれだけ魅力のあった人物描写が全く見えてこない。「このキャラクターはこういうキャラクターだから」といった具合に、人物がストーリーの駒としてしか機能していない。これは前回の破と同様で、ただの二次創作じゃんって言うのも、人物描写力のある同人誌に悪いなって思うほどです。

作品に作家の人生が見えてくる、これはどんな分野においても、作品の魅力を構成する要素だと思います。なんだかよくわかんないけど、ヤバい。人の人生をありありと垣間見てしまうような、ある種の禁忌に手を出す感覚が、より一層作品を魅力的なものにたらしめる。エヴァが自分にとっておもしれーなーと思わせるのは、そういう点です。なので、それが見えないQは「つまんない」としか言いようがないのです。


あとはまあ劇場アニメ作品としてもどーなの?ってゆう部分として、エヴァという世界の中でのリアリティの欠如とか、旧来はきちんと描写されていた組織のあり方が全部省略されてるとか、シンジ君は急にピアノがうまくなったり、その辺は笑うしかないなーって感じでした。「おおかみこども」の時と同じで、リアリティラインの曖昧さがいちいち気になって、映画に入り込めないってゆうアレです。

絵的には、CG感がまるだしすぎて動きが軽く見えちゃうところと、アスカがかわいくない件が気になりました。


破のときの方が怒り心頭で、文句も山ほどあったのですが、今回はそういう意味でも肩透かし。
とりあえずカヲル君とギャル北上だけが、最後の希望です。

さこさん手記

このまえ、さこさん自身がダメな状況に陥るほど、作品世界が何故かイキイキしてくる…という呪いにかかっている件を作家さんとお話してたんだけど、「絵描きとはそうゆうものなり」ってハナシでまとまりました。

うつつを抜かすほど現実がうまくいってしまうと、きっと絵なんか描かなくなる。そうすると作品世界の時間が止まってしまって、そこでその世界は終わりになっちゃう。それでもいいのかもしれないけど、結局自分が何に突き動かされているのかを考えると、そんなことはできないわけで。うつつを抜かすほどの幸せな現実よりも、絵を描きつづけることの方が、自分にとっての現実なのだね。

なんてゆうか、「とにかくずーっといっぱい絵を描いていたいだけ」みたいな幸せな部分と、ダメ過ぎる実世界が相反しすぎてて、ときどき自分の所在に迷う時がある。自己を認識する軸がそのふたつに分かれてしまうので、自分がドコにいるのかわかんなくなるよ。こっわ。まだ覚悟が足りてなくて、充実した実世界というものに対する憧れを、捨てきる事ができないのだろーね。

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